くぜらしく

本当の自分でいることがみんなのためになる。

勝ちと負けの先にあるもの

こんばんは、くぜです。

 

第105回目の甲子園を観て思ったこと

第105回目の甲子園が今日から始まりました。

高校生がこんなにも一生懸命に頑張っている姿を見ると、感動と頑張る気力をもらえます。試合内容について詳しく書きませんが、1試合目からタイブレークになる熱い闘いいでした。どちらかが勝ち、負けるノックアウト方式。彼らは地方予選を戦い抜き、その時にも勝つか負けるかの闘いをしてきました。どんな想いで野球をしてきて、この甲子園に来たのかは熱闘甲子園を観るのが良いでしょう。何も知らない君たちを今日初めて観ましたが、一生懸命な姿に感動しました。特に1試合目の負けてしまったチームの投手。あなたの姿にとても感動しました。負けてしまったけれど、自信を無くさないでほしい。野球の神様がどうとか、実力の差じゃなく気持ちの差だとかそんな言葉がよく言われそうだけれど、そんな言葉は言いたくない。あなたの投げている時の実際の気持ちはわからない。絶対に抑える、そんな気持ちで投げていたと勝手に想像していた。本気と本気のぶつかり合いだと思えたから、あなたに感情移入してしまった。

本気でやったけれど、結果が出なかった。この時の気持ちのつけ方は本当に難しいと思う。

まだ練習が足りなかったんだ、と自分を原因とするのか。

野球の神様が微笑んでくれなかったから、と自分以外の原因とするのか。

この世界には、自分の力だけではどうしようもないことがある。だから当然どうしようもないことが原因となることがある。だから、この「負け」に足を止めず、未来の君の人生を胸を張って歩んでいってほしい。誰かに何かを考えさせ、感動させたことは誇っていいことだ。

 

勝ちと負けの違い

甲子園で言えば、勝てば、優勝へ一歩近づき夏が続く。負ければ、もう試合はできず夏は終わる。勝った者は、勝者。負けた者は、敗者となる。

そして、一生懸命取り組んだ事ほど敗者になった時の悔しさは大きいと思う。自信を無くす、もしくはやっていたことを止めてしまうきっかけになるかもしれない。

昔から学校教育では順位付けされる場面が多く、優秀だから順位が上、劣っているから順位が下という価値観を与えられてきた。順位をつけるというのは、優劣をつけることが目的なのだから、当たり前だと思う。自然界では強いものが生き残り、弱いものは淘汰されていく。その法則が適用されないのが、人間界だから単純な話ではない。人間界では、負けたからといって直接生死にはかかわってこない。ロシアンルーレットのようなデスゲームを行う場合は別だが、日常生活ではそんなことをしたことがある人ほぼいないだろう。ただ日常生活での敗北で敗者は、死なない代わりにネガティブな印象を持ってしまう。色々と経験した大人でさえ、何かに負けた時にネガティブな感情をポジティブに変換して生きている。それを子どもがするのはとても難しく、負けたことによって自分に自信を持てなくなってしまうことはそれほど難しくないと思う。反対に勝てば自信になる。自分の存在が、他人よりも勝っていることになるから。

勝ちと負けを発生させると上に書いた感情が発生する。

極端な言い方をすると、ポジティブかネガティブかの違いしかないと思う。

 

負けた時はどうしたら良いか?

一般的には勝ったほうが良いし、誰かに勝ってほしいと思う。勝つことが良いとされている。しかし、世界には勝負が蔓延している。負けることもある。マウント取りの人からは、いきなり勝負を仕掛けられることもある(同じ土俵にいなければこちらとしては勝負していないが)。負けた時にどうしたら良いのか。どういう感情を持てばよいのか。自分はこう思う。

自分が一生懸命になれていたなら自分を誇れ。そして前に進め。

人間界での負けは、死を意味しない。だから人生はまだ続く。負けてそこで立ち止まるよりも、何かに一生懸命になれる自分を誇ってほしい。再戦するなら、また一生懸命に取り組んで勝負すればいい。人生は一度きり。勝負によっては一度きりの勝負なのかもしれない。物事は色々なことに例えられる。日々の日常も勝負だと言える。日々は人生の中にある。自分は、人生も勝負だと思っている。誰との勝負か。自分でこういう終わりだったらいいなと想像している自分との勝負だ。人生は日々でできているから、日々も勝負。まだまだ勝負すること世界にたくさんある。

 

最後まとまりがなくなった感がある。まだまだ練習が必要だ。

タイトルに戻ると、勝っても負けても人生は続く。学生の勝負事は、指導者や大人が勝負の先にあることをしっかりと伝えてあげてほしい。これが一番大切なことだと思う。